伊藤 恵 録音レポート
フォンテック エンジニア 菊池佑悟
 平成15年1月下旬、東京より車で2時間弱、空っ風吹く群馬県東部の笠懸野文化ホールでの録音をレポートする。
 日本各地のホールに備えられているピアノは、演奏家に奏でられる瞬間を待っている。伊藤さんが今回のレコーディングに選んだのは、笠懸野文化ホールのスタインウェイである。ピアノは生き物とよく言われるが、おかれている環境等によりその状態は常に変化している。ところで、このホールでのピアノ録音は数年ぶり。記憶にある楽器の音色はどのように変化しているか、またその状況にいかに対応するかを考えながらホール入りする。ステージ上に機材を搬入し、調律の川真田氏とあいさつ。すると彼は指さすではないか。そこにはピアノのアクションだけがもう1台あったのだ。
 この仕事を始めて約20年。数台のフルコンサート・グランドを常備のホールは知っている。しかし、1台のピアノに対し、複数のアクションが存在するのは初めて目にする光景だった。
 いうまでもないが、ピアノは鍵盤を押すと弦をハンマーが叩き音が発生する。この打鍵機構をアクションという。ピアノは弦楽器に比べると“消耗品”的な色合いが強く、使用頻度に比例し、特にこのアクションに「疲労」が現れてくる。今回の笠懸野文化ホールは、静謐な空間と豊饒な響きを誇り、数多くのレコーディングが行われている会場だ。当然ピアノが使われる機会も多く、消耗が予想されるアクションのスペアを導入したという。慧眼である。
 マイク等のセッティングが完了する頃、伊藤さんが来場する。数多くのホールで演奏している彼女も、さすがに“2台アクション”は初めてで興味津々のご様子。コンサート同様、レコーディングの場合も調律終了後、楽器の設置位置を決める作業から行うのだが、今回は“アクション比較試弾”から開始となった。


 新しいアクションは「硬めで締った音・低音が厚い」、従来のものは音色にムラがなく「伸びやかで素直」な傾向を示している。“比較試弾”は、録音曲のなかから傾向の違ういくつかの作品を集中的に演奏し進めていった。伊藤さんを含むスタッフ全員が初めての経験だったが、同じ楽器から発しているとは思えないほど、アクションによる音色の違いは歴然としていた。そして協議の結果、伊藤さんの「音色創造」等を総合的に考慮し、従来のアクションを使用することとなった。
 次の作業は、ステージ上のピアノの設置位置を決めることだ。ピアノのように大型で、直接ステージ面に接触する楽器の場合、床面との“相性”で音色が変化する。セオリーはあるものの、結局は調律の方との共同作業で、5センチ刻みで場所を変え音色を探ることになる。コンサートでは鍵盤をセンター位置にあわせるが、録音の場合は音色優先である。ホール・スタッフの方のご意見をうかがい、ピアノの長所を引出すべく様々な位置を試みた。音域によってのボリューム感の差など、どの場所もそれぞれに特徴がある。数箇所に絞り込んだ結果、ピアノのキャスター(足部分の車輪)を舞台床下に隠れている柱(根太)の真上にセッティングする位置に好印象をもつ。低音が締り、それに比例するように中高域が伸びてくる。張りのある音だ。他の位置も捨てがたく「こっちもいいな」と考えている最中に「私は誰が何と言おうと、ココね。」と、伊藤さんに先手を打たれた格好。決定。
 ようやくマイク・セッティング開始。“本業”である。中心になるマイクを選ぶ訳だが、伊藤さんやディレクターの松田との検討・試行錯誤&比較試聴の末、今回は“シューマニアーナ”シリーズで何度も使用している独ショップス社のCMTS-62Sのペアーに決定した。音域による凹凸感も無く、ピアノの音像がストレートに前面に出てくる。中低域の癖もなく、ペダルなどノイズ感も薄い。伊藤さんがもつ、今回収録する作品のイメージと同一方向にあるようだ。


 ピアノは弾き込まれ、時間の経過とともにピアニスト、ホールの空気、そしてステージ位置に馴染んでくる。それと平行してマイクの微調整が必要になる。音像の中抜けに注意を払いながら空気感、音色をステレオ空間に定着する作業だ。テスト録音・試聴を繰返し、最終段階へ進めていく。その結果、良好なセパレーションを確保でき、音色などをヘッドホンでも確認。楽器に近接するマイクを使用しない、ペア・マイクのみによるワンポイント収録となった。“おまけ・色付け”的な意味合いで、同じショップス社のKFM-6Uを客席にセットした。
 今回の収録は、マイクで収録した音をH.A.(ヘッドアンプ)で増幅、さらにミキサーを通し、録音・編集機(マック)の順で準備していたが、意あってミキサーをパスしてみたところ、音の輪郭がハッキリした感触が得られた。理論的には信号経路はなるべく短く、且つ音のダビング(コピー)の回数を減らす事が良いとされている。デジタルでもコピーすれば音は必ず劣化するからだ。
 セッティング完了、録音開始である。気が付けば、試弾開始から7時間が経過していた。
 

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